50年前、アフリカ「ルワンダ」へ渡り、たった一人で財政を再建した日本人の物語
「ルワンダを知ろう」第二回は、約50年前にルワンダへ渡りルワンダ中央銀行総裁としてたった一人で破綻寸前の財政赤字を抱えるルワンダを再建した日本人「服部正也」氏の物語です。現在ルワンダがこれほどまでの経済的発展を遂げられたのは、同氏がルワンダ中央銀行総裁として在任した6年間に行った通貨改革などの同国の経済発展の基盤作りと、コーヒーを中心としたルワンダの農業を自活経済から市場経済に引き入れるための金融面の整備を行い、中央銀行総裁の枠を超えた行動で経済の持続的な発展を促すための骨格をつくり上げたからに他なりません。
同氏のこうした活躍の様子は、1972年度の第26回毎日出版文化賞を受賞した『ルワンダ中央銀行総裁日記』に詳しく述べられています。現在は中公新書「ルワンダ中央銀行総裁日記(増補版)」が販売されていますので、興味のある方は是非ご購読ください。
ルワンダ中央銀行総裁日記
筆者の服部正也氏
“服部正也”氏の略歴
- 1918年 三重県生まれ
- 1947年 日本銀行入行
- 1962年 ベルギーがルワンダの独立を公式に許可
- 1965年 IMF(International Monetary Fund = 国際通貨基金)に出向。IMFよりルワンダ中央銀行総裁として派遣
- 1971年 日本銀行に復帰
- 1972年 世界銀行に転出
- 1980年 世界銀行副総裁就任
- 1983年 帰国
- 1987年 国際農業開発基金委員
- 1988年 アフリカ開発銀行「今後の十年の方向を考える十人委員会」委員
- 1994年 「ルワンダ大虐殺」発生
- 1999年 逝去、享年81
参考:ルワンダ中央銀行総裁日記
それでは、ルワンダ中央銀行総裁としての「服部正也」氏の活躍の様子をご覧ください。
“ルワンダ赴任”の背景
服部氏がルワンダに赴任する前年(1964年)の日本は、高度成長を遂げて経済協力開発機構(OECD)に加入、IMF8条国入りも果たし、国際金融面で先進国として認知されたばかりでした。さらに東京オリンピック開催、海外旅行自由化と、まさに「日本の国際化が始まった年」で、日本の金融マンが国際社会でようやく“一人前”として扱われるようになり、そのためルワンダへの派遣要請で、日本人に白羽の矢が立ったようです。服部氏は日銀入行後も米国に留学し、さらには3年間のパリ駐在でフランス語も話すことができました。ルワンダの公用語が現地語のほかフランス語でしたし、服部氏は1960年から日銀が主導する東南アジアなどの中央銀行職員研修の教頭や講師を務めており、技術支援の分野でもすでに活躍していましたから適任と考えられたのでしょう。
1965(昭和40)年、同氏が日本銀行外国局渉外課長を務めていた46歳の時に、国際通貨基金(IMF)の要請を受けて独立間もないアフリカ中央にある小国ルワンダ共和国の中央銀行総裁として派遣されることになりました。服部氏が赴任した当時のルワンダは、ベルギーから独立して3年あまり。日本はおろか、IMFでもルワンダに行った人はほとんどおらず、得られた断片的な情報では「ひどく貧乏で生活環境が悪く誰も行きたがらない国」だったそうです。しかし、服部氏は「生活条件の悪い国こそ、外国人技術援助の意味もあると思っていたし、また、現に人間が住んでいるところなら、自分が生きてゆけないわけはない」「しかしなんといっても、日本銀行員として小さくても中央銀行の総裁になることはうれしいことである」と、総裁就任を引き受けたとのことです。
“着任時”の驚き
降り立ったキガリの空港には空港ビルなどなく、滑走路の横に電話ボックスのような小屋が2つだけあり、そこが入国管理と検疫の事務所だったそうです。勤務する中央銀行も頑丈な作りではあるもののペンキのはげかかった2階建ての建物、さらに仮の宿舎の床はカーペットもなくセメントのままで家具もわずか。さらに、ひげを剃るための鏡を買うために町中を探してやっと見つけたのは、ガラスが割れて縁が錆びているもの…..服部氏の着任当時のキガリの物資の欠乏は想像を絶するものだったといいます。さらに、総裁付きの運転手として現れた人の服はボロボロで、なんと裸足でした😲😲😲
“劣悪な生活環境”にも負けない
生活環境も劣悪でした。道路はほとんど舗装されておらず、首都のキガリでさえ商店といえるほどのものは数軒しかありませんでした。停電や断水はいつものことで、水道をひねるとダニの浮いた水が出ることもしょっちゅうありました。普通の人なら絶望しそうなものですが、服部氏はまったくひるみませんでした。豪放磊落ながらも細やかな気遣いと抜群の行動力で、最悪とも言える状況をぐいぐい切り開いていきました。
服部氏は、1918年三重県生まれ。朝鮮銀行に勤めていた父親の赴任に合わせて、子ども時代をロンドンや上海で過ごしました。小学校3年生のときには、上海の日本人学校で日本語がうまく話せず、いじめられたこともあったといいます。東京大学法学部を1941年に卒業後海軍に従事し、軍士官としてパプアニューギニアのラバウルで終戦を迎えましたが、語学と法律に堪能なことからオーストラリア軍との連絡将校やラバウル戦犯裁判所特別弁護人を務めた後に47年に復員し、翌48年に日本銀行に入行しました。戦中戦後を生き抜いてきた服部氏は、私たちが想像しえないほど過酷な体験をしています。それが劣悪で過酷な環境でも物事を投げ出さずにやり遂げる強さの原点だったのでしょう。
“改革”の始まり
着任後早速行内を見学したところ、「各職場ではさかんにおしゃべりしている。数人は居眠りしている」状況。空席が多いので理由を聞いても、「監督者も知らない(あるいは言わない)」。思わず逃げ出したくなるこんな状況に直面しても、服部氏は「逆に見れば、これ以上悪くなることは不可能である」と前向きに捉えたそうです。「私がなにをやってもそれは必ず改善につながるはずである」と見定め、中央銀行とルワンダ経済の立て直しに邁進していきます。
ルワンダではまったく何もないところから始めたので、むしろ真っ白な紙にデッサンをしていくような楽しみはあったのかもしれません。行員に業務を教えるまでは、最初は総裁である服部氏自ら帳簿に記入もしていたそうです。日銀には独特の規格の『統計用紙』があるのですが、それをルワンダに大量に持ち込み、物差しで線を引き、戦前から愛用していた5つ玉のそろばんを使ったとのことです。
しかし、恒常的な“超”財政赤字を抱える国の経済を再建することは当然困難を極めました。中央銀行でさえ破綻寸前の資産状態で、行員は派閥を作り働きません。政治家ですら経済の窮状を理解しておらず、ルワンダに関わる外国人らは自分たちの利権を手放そうとしない……まさしく八方塞がりの状態でした。しかも、国際化が進んだとはいえ、当時の日本人は依然、国際社会での立場は弱かったのです。それでも服部氏は、ルワンダの大統領ほか各大臣の信頼を得、通貨下落に苦しむルワンダ経済を救済するために、IMFや旧宗主国のベルギー、アメリカの金融関係の要人らと激しくわたり合い、ルワンダ経済の持続的な発展を促すための骨格をつくり上げました。
服部氏は、まず緊急救済策として、二重為替相場を廃止し、ルワンダ・フランの対外価値を自由相場並みに切り下げて一本化しました。また、それまでの外国人優遇税制という問題にも切り込み、着任から一年後の1966年には通貨改革を成功させました。これと並行して、ルワンダ経済の発展のために、自活のためだった農業を市場経済へ引き出すべく物価統制を廃止したり、流通機構を整備するためにルワンダ商人の育成にも着手しました。
アフリカの中央に位置する小国ルワンダは、コーヒーが主要な輸出品ですが財政と国際収支の赤字が累積し、国内では外資系企業と外国人が大手を振るベルギーの旧植民地でした。ここでも服部氏は次々と改革を断行していきました。通貨改革と平価切下げと輸入の部分自由化を進め、歳入と歳出のバランスを大蔵大臣と協議し、国債を発行しました。そして、国債引き受けを外国銀行に頼み込むことまでしました。外国人に軽く、ルワンダ人に重い税制の歪みを正し、中小企業を育成するため開発銀行を作りました。もうとにかく動き回りました。とても中央銀行総裁に思えないほどです。おまけに鉄道もタクシーも発達していない国だからせめてバス交通を充実させよう、と日産ディーゼルと交渉してバスを輸入しバス公社を作ったりと、そんなことまでする?と驚いてしまいます😲😲😲
実行した“主な施策”
“基本施策”
- 外国人職員強化(ベルギー中央銀行との交渉による出向など)による行員の教育
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経済再建計画の立案(基本構想は、生産増強の重点を農業におき、農民の自発的努力によって自活経済から市場経済に引き出すというもの)
“通貨改革”
- ルワンダ・フランの新平価の決定(国際収支と物価水準の均衡)
- 二重為替相場制の廃止(自由外貨を政府外貨に統合し、外国人の利潤の不当な増大を防止)
“税制、財政改革”
- 税制改革(ルワンダ人と外国人の税負担の不均衡を是正するため、税収の大部分を間接税に求める)
- 財政再建(予算規模を3年間固定、予算執行の準則、予算費目の間の流用の禁止、国庫仮勘定の縮小)
- 貸付や国債保有に関する金融機関(ルワンダ貯蓄金庫、ルワンダ商業銀行等)との協定
- 貿易外取引の改正(俸給送金、家賃収入の送金、企業の利益送金等)
- 資金援助に関する国際通貨基金や外国政府との交渉
“産業育成”
- 物価統制の廃止
- 農業生産の増強(コーヒーの生産者価格の決定、農産物の多様化)
- 会社法の立法(商業活動をルワンダ人またはルワンダ法人にのみ認める)
- 商業における競争の導入(1件200ドルまでの国境貿易の許可、外国銀行券の携帯輸出入の許可、外国銀行券の保有と取引の自由化)
- 新銀行設立の援助(キガリ銀行、ルワンダ開発銀行)
- 物流の整備(倉庫会社設立の援助、日産自動車と日産ディーゼル(当時、現「UDトラックス」)よりトラックを導入)
- 公共交通網の整備(バス公社の再建、各都市間の定期交通便。日産ディーゼルよりバスを購入)
- ルワンダで操業するベルギーの鉱山会社との交渉
- 以上の施策の結果、消費者物価の安定、外貨事情の安定、農業生産の増加、輸出入の増加、税収の増加、経済の質的向上などの成果をみました。
ベルギー中央銀行の職員で、総支配人として出向してきたクランツ氏(左)と
“現地の人”を常に意識
仕事を行うに当って服部氏が最も関心をもったのは、ルワンダ人は怠け者かどうかということでした。国民が働かなければどんな計画も失敗に終わるからです。しかし、ルワンダ政府の外国人顧問団や技術支援員たちは「ルワンダ人に経済発展は無理だ、彼らは怠け者だからだ」。と口をそろえて言いました。果たしてそうか?と、服部氏はルワンダ人商人や国民に話を聞き、彼らの生活のなかに入っていき、真摯に向き合い、国民性を掴み取ろうと観察しました。そこで得た知見は決してルワンダ人は怠け者ではないし、能力がないわけではないということでした。当時落ち込んでいたコーヒーの生産は、彼らが怠け者だからではなく、物資の供給が不足し、価格体系が悪いから、彼らにとって価値を失った現金収入を捨てて自活経済に後退したにすぎなかったのです。
外国人と外国企業に有利な税制や為替制度にメスを入れ、ルワンダの生産増進を政策面で後押ししました。ルワンダの人たちのふところに飛び込み、その声に耳を傾ける姿は、文字通り獅子奮迅の活躍でした。植民地時代からの制度で甘い汁を吸う欧州系の人々の言い逃れを、事実と論理で打ち砕いていく……そんな姿は痛快であり、ここにサムライありと日本人としての誇りを呼び起こされます。通貨、財政、金融、産業育成、競争政策とほぼすべての分野で、ルワンダの人たちにとっての最適解を探る、そうした姿こそ本物の国際貢献であると教えられます。服部氏は偏見に満ちた外国人の“助言”に耳を貸さず、どこへでも足を運んでルワンダ人と国の状況を理解しようと努めました。銀行マンとして剛腕を振るうばかりではなく、ルワンダ人に寄り添う服部氏の姿を認めることができるのです。
服部氏は現地の人の立場に立って、経済再建計画の立案・通貨制度の改革に努めました。当初1年間の予定でしたが、当時の大統領カイバンダの絶大な信頼を得て結局6年間も在任し、同国の経済発展の基盤を確立しました。こうした改革の裏には服部氏のルワンダ人に対する公平な目と観察力があったと思われます。事実に基いて様々な経済改革と政策を立案していく。「ルワンダ中央銀行総裁日記」を読んで感動するのが、服部氏のこの観察力と話を訊く真摯な姿勢です。突然、アフリカの小国の中央銀行総裁になるドラマ性もさることながら、服部氏の奮闘の数々は一遍の小説より痛快で面白く感動します。
”国際援助”に関する見解
服部氏は国際援助については、世界連帯の理念から自助努力を支援すべきという考えを持っていました。
”国際機関”に関する見解
服部氏がルワンダと世界銀行での勤務を通じて最も不満だったのは、欧米人一般と国際機関の国際官僚(途上国人を含む)の途上国への人種偏見と蔑視であり、援助の失敗はこの偏見が原因の大半であるとしました。開発途上国での経験から、国連の援助機関のなかでは国連難民高等弁務官事務所と国際連合児童基金を特に評価していたようです。
服部氏は当初、IMFからのミッションである通貨改革に目途がつけば、1年、長くても3年で総裁を辞めて帰国しようと思っていました。それはあくまで自分は“援助”という立場であり、ルワンダ人こそが中央銀行の総裁とならなければならないと考えていたからです。服部氏には何も曇ったところがなく、個人的な利益などよりも、日銀の人間としてクリーンに仕事を成し遂げようとしていました。その根底には、国際機関や援助国の人間は途上国の政府や国民に対して人種的な偏見や蔑視の念を持ってはならず、生の声に耳を傾ける謙虚さが必要であるという哲学がありました。ですが、1966年に通貨改革を成功させたあとも、コーヒーを中心としたルワンダの農業を自活経済から市場経済に引き入れるため、金融面の整備を行い、2トントラックの導入やルワンダ倉庫株式会社、バス公社の設立など、中央銀行総裁の枠を超えた分野に挑戦しています。結局、1971年まで6年間、ルワンダに滞在しました。
服部氏が大統領の全幅の信頼を得て、現在の日本で言えば、日銀総裁のほか、財務大臣、経済産業大臣、国土交通大臣を兼ね備えたような権限を与えられ、政策をこなしていく氏の姿に、一種の爽快感さえ覚えます「ルワンダ中央銀行総裁日記」の末尾の〈途上国の発展を阻む最大の障害は人の問題であるが、その発展の最大の要素もまた人なのである〉という一文から窺えるように、ルワンダの人たちに対する“優しいまなざし”が貫かれていることに感銘を受けます。
ルワンダ独立記念日の様子……服部氏の着任以来、日の丸も加えられた
”出典・参考文献”
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服部正也著『ルワンダ中央銀行総裁日記』
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服部正也著『援助する国 される国』
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フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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ルワンダノオト『ルワンダ中央銀行総裁日記』服部正也・諸表~50年前ルワンダを再建した日本人リーダー5つの教え
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デイリー新潮 2021年5月21日掲載記事
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三重県立美術館 続・発見!三重の歴史 > 途上国支援 世界で活躍―元ルワンダ中央銀行総裁服部正也
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他